多くの会社や公務員その他の組織では人事異動内示の季節になり、地元新聞紙上には名前の洪水が押し寄せます。悲喜こもごもですが、これがまた新たな人との交流や意外な出会いがあり、組織の活性化にも繋がると言われます。人事異動は予測不能な仕事にも遭遇し人生の活力にもなります。私は41歳の時、分野が全く異なる研究所に異動になりました。内示1ヵ月前に当時の所長から話があり、真っ青になりほとんど夜も眠ることができず、挙句の果てに胃潰瘍になったことを今でもはっきり覚えています。当時所長から「私が全く知らないところで了解なく君の人事異動が進んでいるので私は怒っているがどうにもならない。君に有力な人がいるなら外部からこの話しを潰すこともできるのだが、誰かいるのなら行動を起こしてもいいよ」と伝達された。当時親しい有力な県議会議員がいたので早速お願いした。37歳の当時博士号を取得するのは困難な時代であったが、学術報告も多数あり、主審査を担当する先生の評価により博士号もいただき、学会賞も受賞。講演の要請や大きな研究会等の座長や進行役も仰せつかっており、全国レベルの評価によりあちこちから高い評価を受けていた。研究者としてもまさに絶頂期とも言っていい環境だったのである。研究者は研究の継続と深化が命であり、途切れる事への不安は怒涛の如く胸に迫った。翌日所長に呼び出され、「君○○先生にお願いしたんだってね」。「所長から言われましたのでお願いしました」。すると、「実は既に部長(本庁)が了解して人事課でも決定事項になってしまっている」と聞き、烈しく動揺した。すると所長から1枚の紙を見せられ、関係主管課の3課長連名で2年後には元の所属に戻すという覚書を渡された。ということは既定の事実として受け入れざるを得なかった。当時は更なる研究の進展を描いていたので4月1日の辞令交付式に出席はしたくなかったことは言うまでもない。それでも不満ながら辞令を受け取り研究所に出向いた。
ところが移動先の所長は「君のような人が来てくれてとてもうれしい」言われたものの価値観が全く異なり、一介の農薬分析マンを受け入れるには半年を要した。それでも学会参加や研究遂行には特別許可をいただき、次第にその雰囲気に馴染んでいくのが不思議であった。1年後に私のために研究所内にリーダー職制を導入し、責任者に指名いただいた。気が付くと研究所内を我が物顔で飛び回り、その間もこれまでの実績研究に伴う学会表彰や講演、技術指導出張もあり、その上辞退したが国立研究所への転出に奔走していただいた大学の先生方の好意等は計り知れないものを感じた。所属に人生が支配される不安は次第に薄れていった。要は自分の意思と行動が大きく影響することを学んだ2年間であった。2年目の人事ヒヤリングには所長にあと1年どうかと打診されたがお断りした。不思議なのは人事ヒヤリングが迫る中、この組織にもう少し居たいという思いが湧きあがったのである。あれだけ大騒ぎをしたのに何故だろうと自分自身を問い詰めた。新たな価値観の素晴らしさが理解できるようになり、また自分流の行動思考が人を動かし通用すること。また、それを上司が認めてくれたことによるものと気が付いた。また、この間元所属の悪しき部分が浮き彫りになったことである。こうして元所属に戻った後の定年までの17年間1~4年毎に配置換えはあったものの全て前向きに捉え、その都度成長できたことを実感できた。研究実績の持続には支障があったもののそれ以上に大きな価値をいただいた運命に感謝したい。蛇足だが異動した2年間は研究所の所在場所から電車・バス通勤に変えたが、時間潰しにたまたまの読書が直木賞作家故渡辺淳一を知ることになり、人生観の大きな転換期になったことも付け加えたい。
昨年父方兄弟姉妹夫婦14名が全て他界したのを機会に、はじめてのいとこ会を亡叔母の娘M子宅で1月27日に開催したのである。いとこ17名のうち既に3名が他界。函館在住や90代の高齢者もいるので結局6名が集合した。M子は元医者の妻で離婚して一人住まい。歯科技工士であった若き頃、診療に男子の行列ができるほどの美女であったそうだ。というのは友人から「M子のいとこなら紹介しろよ」なんて言われたのでそうかなと感じたものである。荻窪の自宅に着いた時「兄ちゃんひさしぶり」といって77歳のM子に道路上で抱きつかれ、不思議な感触があったものの遠い子供時代が蘇った。88歳のK子も40数年ぶりに会ったもののかすかに面影が残るほど年老いていた。それでも懐かしい時代を呼び戻す楽しい会となった。多分このメンバーでの再会は難しいと思う。この日はいとこ会の前に成城に在住で、昨年鬼籍入りとなった大学時代の友人宅を弔問した。奥様の屈託ない明るさと同居の爽やかな御子息、そしてその子供達との僅かな時間の談笑に時を忘れた。故人の遺志で簡素な家族葬で済ませてことを聞き生前の彼の人生観を思い遺徳を偲んだのである。そんな余韻も残る中翌日の大相撲初場所では、予想を覆した横綱照ノ富士の優勝決定戦は大きな拍手と万歳で祝った。大関からどん底まで番付を下げて横綱に上り詰める人生が私の感情を大きく動かしたからである。大大ファンである。涙がでるほど感動してしまった。そして2月に入るとまたまたとんでもない危険が2年ぶりに私を襲った。4日の夕方であるが、下腹部に僅かな痛みが走った。「もしや腸閉塞では」というひらめきが頭を過った。早速夕食を絶ち翌日も1日ほぼ絶食せざるを得なかった。痛みはなくなったが膨満感は残った。それでも時折僅かな放屁や便も出る。2005年の大腸がん手術の後遺症で、これまで入院3回、自癒6~7回の中では最も軽いのではと思いながら食事を制限してきた。19日にはほぼ完全に回復したと実感できたが、この感覚は説明しようがないほどのわが身独自の感覚である。通常完全回復と実感できるのに3週間を要したが、今回は概ね2週間と最速回復であった。大腸ガン手術で退院時「大腸は一旦取り出しましたが元の状態には戻っていませんので腸閉塞には気をつけて下さい」と指導を受けたがまさに持病となった。「高速道路や事故渋滞と同じですから新たな進入を防ぐのが肝要です」と指導を受けた。要するに絶食しかありませんと。常に警戒しているが突然やってくる嫌な悪党である。そんな時を過ごしながらも2月上旬には食品クレーム1件処理やベンチャー企業のユニークな試験に3日程を費やした。また唯一会長を務めている研究会の運営企画の仕事も消化した。バレンタインデーはいつもユニークなユーモアに満ちた贈り物が次男のバイオリニストの嫁さんから届く。今年は何かなと思ったら何の変哲もないおっさんイラスト入りコーヒーカップ。ありがとうのラインの返事にちょっとお湯を注いでくれませんかと。途端に家内と笑いが起こった。何とも微笑ましい。先週16日の2年前から始めた江戸芸かっぽれ舞踊の福祉施設訪問披露が、入居者の笑顔に包まれ有難き思いをさせていただいた。変化に富んだ1ヵ月であった。
2024年もあっという間に3週間が過ぎてしまった。今回はちょっと私的な失敗談を書いてみました。人は高齢になると忘れ物が多くなる。また、人の名前はイメージとして頭にあっても言葉としてなかなか出て来ない。私も例外なく、あれ、これ、それが非常に多くなった。昔のことはしっかり記憶に刻み込まれているが最近のことは思い出せないことも多い。ところが私は50歳の頃から忘れ物名人で、どこかへ出かける際には部下達から、「小宮山さん 忘れ物はないですか」と声をかけられるのが日常であった。と言うのは出かけてしばらくすると戻ってくることが多かったからである。特に携帯電話や小物バッグを忘れることが多かった。①名古屋の名城大学で開催されて学会の際、トイレに携帯を忘れて2時間位経過して携帯がないのに気付き真っ青。当然トイレにはもうない。受付に行ったら「なかなか取りに来る人がいないので不思議に思っていました」と。無事回収。②国の研究会議で鹿児島出張の際、鹿児島空港に行く高速バス乗車前に鹿児島中央駅のトイレに入り、そのまま高速バス停で待っていたところバスが来た。乗車直前胸ポケットに携帯ながないことに気付き慌てた。バスをやり過ごしてキャリーバッグをゴロゴロ引きながらトイレの置台を見た。再び真っ青。慌てて駅構内の受付に飛び込んだ。「白い携帯ですか」「そうです」「たった今お客様から届きました」と。鹿児島空港発のフライトには間に合った。③2月の北海道。新千歳空港に午前中着き、早速空港内のレストランで美味しい海鮮丼をいただいた。入れると出したくなるのとおりトイレに入った。一面の雪景色の中空港発バスで国の研究所に行くバスを待つ。到着したバスに乗車。「それでは出発します」のアナウンスと同時に胸に手が触れるとあたりがない。「スイマセン降ります」といって先程のトイレに慌てて急行。ドアを開けると置台に淋しそうにポツンと携帯。うれしいやら情けないやら再会果たす(写真:長く愛したガラケー携帯は静かに眠る)。何とか研究会議には間に合った。
④考えられないバッグ忘れがあった。日光にゆば工場等の視察に愛車ロードスターで出かけた。宿泊翌日栃木県内の東北自動車道に入って直ぐサービスエリアで小用のためトイレに立ち寄る。そのまま走って八王子で人と会うために下車。胸には携帯はしっかりあることを確認。レストランに入って食事中携帯が鳴る。履歴を見ると家内。「何か忘れ物しなかった」「いやないよ」「バッグはどうしたの」「車の中にあるよ」「あるはずないよ、今高速警察隊から連絡あって栃木のサービスエリアからバッグの忘れ物があったと連絡あった。遂にやったなと思ったら忘れ物だったよ」。サービスエリアでバッグを持って小用時、眼前に置いたバッグを非情にも置いてきぼり」。親切な人がサービスエリアに届け、高速隊に連絡したのだ。同バッグ内の手帳に自宅連絡電話が記入してあったので家内に連絡があったとのこと。高速隊の女性担当者に連絡し、バッグを郵送してもらうことで一件落着。免許不携帯運転については聞かず問わずで、気をつけてお帰り下さいとの温情ある担当者に最敬礼(笑)。こんな大事の他、家庭内やコンサル企業あるいは各種会議場でも頻繁に起きる。フランスのパリで帰国直前ビデオカメラを忘れそうになったこともある。我ながら情けないと思いながら次の事件に繋がってしまう。いつも先の事を考えているかだと言い訳ばかり。体と一体化できるひも付きにしたらと言われながら対応策をとらない常習者である。日本人の親切さは世界一だと言い訳を言いながら忘れ物名人の返上はできないのだが。
毎年のことであるが、この時期1年を振り返ってブログを書いて整理していたが今年は毎月書いている内容が全てで特にあらためて書くようなこともないようだ。ただ、78年もの人生を歩んできていても余り年齢を感じないのはどういうことだろうかと、ふと考えてみた。新聞を始めテレビ報道、ネット報道あるいは学会誌等を見て各分野の人達が活躍していることに無性に焦りの気持ちを感ずる。妬みとか嫉みとは少し違う感覚のようで、何で自分にはできないだろうという焦りではないかと思う。大学時代の同級生や既にリタイア―した方々とのライン交換やメール交換では皆多くは心静かに趣味をはじめとして人生を達観して楽しんでいる。何故自分の心の中ではそうならないのか不思議である。活躍している後輩達の行動がひどく羨ましく感じ、何とか仲間に入って競争したいのである。できないと分かっていてもそれを許さないもう一人の自分がいるようである。「お前何しているんだ。もっと社会貢献できるはずだ」と。そんな忸怩たる思いが心の中を駆け巡る一方で、「今後何をすべきか」ということがわからない。どうしても過去の活動の延長に縛られるのは未熟なのではなかろうかと。思い出してみると30代は寝る間も惜しんで仕事や研究に没頭し、博士の取得や各種の学会賞等を受賞した。その後も学会や研究会等の運営にも深く関与し、会長や副会長等も務めて忙しく充実していた。そろそろ達観しても良い年なのに退職後もコンサルタント業を起業し、国内外飛び回って18年近くになる。組織を外れてストレスも全くなく自由に仕事をさせていただき、それなりの収入も得た。それなのにまだ満足ができない。よほどの欲張りなのではないかと苛むこともある。そこで、昨年よりカルチャーセンターの舞踊のひとつである「桜川流かっぽれ」講座に入講して練習に励んだり、長い趣味の将棋を日々のネットなどで時間を割いている。それでも学会や食品関係のイベントには心穏やかでなく出張参加してしまうような始末である。ましてや顧問企業からや飛び込みの技術相談が入ると燃え上がり生き生きとしてくるのが何故か自分でも可笑しい。どうも落ち着いて行動することができないような性格のようである。あまり考える時間はなく忙しい方が良いようだ。そんなことを考えながら作家渡辺淳一の処世訓である「人は死んではいけない。だが死は避けられない。それゆえに生きているうちは精一杯生きることが必要である。それもほんとは無駄なことではあるが、死後の果てしない虚しさからは一時眼をそらすほどの効果はある」を想起しながら、来年も戸惑いながら歩くことになるのではないだろうか。ちょっと他人事のようであるが、実感である。多くの人に感謝しながら年末を迎えることができた。それにしても最近数年は知人、友人、親戚の鬼籍入りが加速してきている。年齢を考えれば当然のことではあるが、特に今年は親しい大学の同級生が3名、元県庁職員で弁護士1人、そして父方の叔母2人がいずれも100才越で鬼籍入りとなった。まだまだと思いながら合掌。
仏教では亡くなった故人の32年後の年忌法要を「弔い上げ」と言うそうで、このくらいの法要に辿り着く時は魂も無罪放免となり、極楽浄土へ行って往生するという教えに基づいているとのことである。1960年代頃山梨大学の3奇人と言われていた亡き中山大樹先生(山梨大学名誉教授)も今年の11月27日で没後32年となった。定年退職65歳の年の1991年11月のこの日にパラオ沖での試料採取後東大で講義を行い、その足で静岡県清水市にあった海洋バイオテクノロジー研究所(当時)への帰路、清水駅から徒歩中車に跳ねられ帰らぬ人となった。誰からもそのアウトドアー的な行動や強靭の肉体から100歳まで研究を続けるのではと思っていたが,とんだ落とし穴があったわけです。冬は半袖下着に白衣と素足、大学へはヘルメットに長靴で傘を共に自転車通勤が奇人の所以であるが、神出鬼没の上に全て実験は自分で行う姿は退職まで変わらなかった。自然界からの微生物収集のため、いつでもどこでも対応できるためがそのスタイルであった。講義は笑いを伴うマンガチックなイラストを用いてわかりやすく、いつも講義は待ち遠しかった。私は3年生の夏休み直前、掲示板に「アルバイト求!時間百円―中山研究室」とあったので早速申し込みを行った。当時大卒の初任給が25,000円程度あったので、現在の800~900円である。高くはないが、管理者なしの遊びと学びの仕事で今でも楽しい思い出ばかりである。6人位のグループで自然界から昆虫類を集めてその腸内から乳酸菌を分離するのである。私は乳酸菌分離班を希望。その時中山先生から分離方法に幾つかの提案をいただき、私は1つの分離方法を私なりに提案して採用。早速鋭意務めたが失敗の連続であった。困惑している私に先生は、「小宮山方式もいいんだけど、それじゃ中山方式でやってみましょうか」と言われて分離を行ったところ大成功。一度失敗をしている負い目から必死に分離に励んだ。「やられた」と今思うのである。私の性格を読み込んでの教育的指導であったのは間違いない。このことが生涯の中山ファンになるきっかけであった。卒業後県の試験場に入ってからもなんとか先生との接点を求めようと試行錯誤を繰り返しながら1985年山梨県食品技術研究会を立ち上げた。もちろん会長に就任してもらったが僅か6年での鬼籍に入りは残念の極みであった。それから32年間命日には1度も欠かさず墓参を続け、中山イズム(チャレンジ精神と行動力、そしてリスクを背負う意志)の実践を報告できたのである。先生は50台から環境分野の学科の教授に転身したが、師弟関係(私の独善的師弟関係)を続けることができた。環境分野在任中の助手であった雨宮由美子さんと中山先生を崇拝する同分野の竹内邦良山梨大学名誉教授を誘って途中から3名で墓参をするのが年忌行事となった。
この行事をいつまでも続けるわけにはいかないのでこの33回忌をもって3名での墓参行事を終わることにしたのである。竹内先生の都合により命日の翌日の28日11時に甲府市郊外の高台に位置し、前面に富士山を仰ぐ千代田霊園を墓参し、11時半より近くの甲府記念日ホテル1階のレストランで会食。数々の想い出を語り、それぞれの人生に今後とも中山イズムを実践して行くことを約して散会した。私にとっては終わりなき墓参になるのではないかと思いながら帰路に着いた。