今年も残すところ一ヶ月余となった。3年以上続いた新型コロナウイルスのパンデミックも5類への移行により日常生活が戻ってきたところである。4月には5年ぶりに山梨大学発酵生産学科の同級会を、また元職場のOB達とも10月、11月と久しぶりに楽しい会が開催できた。やはり対面での交流は心が一層通い合い素晴らしいものだと感じたし、生気が蘇る。それにつけても今年は大学時代の同級生を3人も鬼籍に送ることになった。僅か24名の卒業生であるから落胆も大きい。北海道から沖縄出身の友なのでそれぞれの地域の文化交流も盛んに行うこともできた。1人は沖縄出身でパスポートを持って入学してきたのであるから時代が分かる。卒業3年後に沖縄返還があったので想い出は一層深い。卒業後トマト加工品の著名企業デルモンテに入社し、製造技術分野で大活躍。退職後は子会社の社長に就任したが、まもなく心臓病でリタイアせざるを得なくなった。その後奥さんに先立たれ、自身も車椅子生活と施設入居を余儀なくされ、同級会開催直前の3月末鬼籍入り。4月の同級会で輪の中心となった友は福井県出身で豪放磊落といった性格であり、皆を楽しませてくれた。10月上旬に突然携帯に次男と称する人物から携帯に電話があり、本人木更津の自宅で急死。葬儀も済ませたとの連絡があった。営業センス抜群で日本臓器製薬の役員まで出世したが、退職後木更津に自宅を購入して移り住んだ。3年ほど前奥様を亡くし1人悠々自適の生活を満喫していたが、訪問家政婦が倒れているのを発見。新聞の抜き取り状況から10月2日が命日となった。もう一人は11月20日喪中欠礼のハガキに奥様から主人は2月逝去したとの報が届いた。彼はメルシャンーカルピスーコーニング等を経て日本シャクリーの部長を中途退社し、私と同じコンサルティング事務所を開設し、都内有力企業のコンサルを続けて70歳で事業を停止した。東京の成城育ちにして都会的で物言いも合理的で奥ゆかしく、冷静沈着型の人物であったが、どこにそんな行動力があったのかなと思うほど内面は熱き戦士であったような気がする。卒業以来仕事については常に連携をとって進めてきた友人でもあった。7~8年前からパーキンソン病を患い会うことも叶わずの別れとなった。1月に発信したラインメールは既読になっていたし、昨年は奥様の代打ちでメールも届き、徐々にではあるが回復傾向にあるとの報で少しは安心していたが、3月以降のメールは既読にならず心配していたが現実なってしまった。人は必ず死を迎え、避けることはできない。それ故に生きている限りは精一杯生きることが大切であると言った小説家渡辺淳一の人生訓を再び思い出した。今年は10月にも105歳、100歳の叔母も亡くし、これで父方7人兄弟の夫婦が全て鬼籍入りとなった。いよいよ我々順番だよなと20年ぶりに従妹に電話をかけ、来年1月に父方のいとこ会を東京で開催することになった。そういえばこの3年ぐらいで多くの親族、友人や先輩、後輩、恩師を送ることになった、が益々日々大切に充実した人生を送ろうとの決意が体中を駆け巡るこの頃である。
いつだったか正確に覚えていないが数十年前故俳優田宮二郎が主演したモノクロ映画「白い巨塔」を見て強烈に引き込まれた。その後山崎豊子の原作も何回も読み返した。医者とは人の命を救う天使のような高潔な人物との社会評価とは大きな落差が引き込まれる要因であった。物欲、出世欲、権力欲に固まった財前五郎が主人公であるが、外科医としての能力は傑出しており、次期教授選を舞台に各専門分野の教授陣のあからさまな人間像が描かれている。人間だから当然と思う反面どこかに高潔性を願う想いが打ち砕かれた。その後も不毛地帯、華麗
なる一族、沈まぬ太陽、大地の子、運命の人と出版されたが、沈まぬ太陽以降は全て初版本を購入して没読した。最後の約束の海は残念ながら第一巻で終わってしまったのは残念であった。権力者というものはいつか不条理という道筋を歩くようになり、従うものはふつふつとした怒りも自己保身の波にのまれ、いつしかその片棒を
担ぐようになる。人は加齢によりいつしか達観してこの不条理を受け入れるようになるが、山崎豊子は最後まで屈しなかった。日本航空御巣鷹山墜落事故を題材とした内部事情を赤裸々に描いた沈まぬ太陽の映画化でも大きな抵抗に会ったが、遂に映画化され、ドラマ化された。私も研究者の端くれであるので、その道に突入しているうちに同感できるようなることにあまた遭遇した。「研究者や大学の世界はヤクザと同じ世界である」と私は評してきた。幸い私は無派閥で、しかもこうした親分達から疎まれることなく、また親分を説得する役目を果たしてきた。地域研究者であり、主流大学出身者でもないのも幸いして学会の改革推進に大きな役割を担うことができた。こうした中で、常に自分の意見はハッキリ申し上げることが肝要であることを実感した。そのことが道理にかなっていれば必ず一部でも受け入れられるということである。ただ、正義が必ず正しいわけではなく、相手の立場を考えて妥協も必要である。ではその接点はというと答えはない。自ら探し求めるしかない。
さて、近年若い人達の思考は諦めの構造になっているような気がする。これらの作品に共通していることはおかしいと思うことは心で思うのではなく、声を上げて具体的に行動に出て闘うことの必要性を問うているものと思います。自己保身は必ず後悔すると思うし、闘って敗者になるならば喜んで敗者になる覚悟が自分の道を切り開くことになるのではないかと、自分の人生を振り返りながら山崎豊子の一連の小説に思いを馳せた。
1年程前地元保守の仕切り役から「小宮山さんはリベラルなんですね」と突然聞かれ、「そうですが」と即座に答えた。どこから得た情報なのか、何の目的なのか知る由もない。
今月5日函館の父方叔母が105歳の大往生の報を聞いたばかりであったが、同じ父方叔母が17日に100歳の大往生。3年前に末弟の92歳の叔父、2年前には東京在住の105歳の叔母と、これで父方の叔父叔母全て鬼籍入りとなった。なお、長男であった我が父はガンで66歳の鬼籍入りの例外。皆なんと長寿であったのだろうかとふと考えたところ一つの勝手な結論を得た。全て雄弁で声が大きい。行動が自分勝手である。思ったことはズケズケと相手のことは考えずに言うのである。これが不思議で甥の立場からは清々しいというか、恰好がいいのである。要するに精神的なストレスがほとんどないのではないかと思われるのである。特に92歳の叔父は封建的で家制度の塊であった。私が長男であるのに昔風に言うと家を継がないということから非常に厳しい扱いを受けた。それでも私はあまりに気にしないタイプで弟を立てていたので大きなトラブルはなかった。この叔父は父が太平洋戦争終了後ソ連に4年間抑留され、帰るまでは甲府市の実家の我が母を支えてくれた。父が帰国と同時に裸一貫で東京に出て行き、日本で有数の青果会社を友人と設立して大活躍したのである。この成功体験は益々我儘を助長したが、経済的には柱となって兄や姉を支えたのはさすがである。そして実家に対しては常に義理堅い行動をとってきた。そんなわけで叔父叔母とは接触する機会が多く、今となっても親近感が湧いて他人事とは思えない感情を持つのである。一方で母方の親族も比較的長寿である。長女の我が母は95歳、その妹も95歳、弟も99歳で鬼籍入り、末の妹も95~6歳位で存命である。2人ばかり70代での鬼籍入りもあったが総じて皆元気で人生を過ごしてきた。母方の方は雄弁ではないが、我慢強く、芯の通った粘り強い性格の叔父叔母が多かった。
私も60才時に大腸がんに罹患したが幸い早期発見で手術も成功して80歳に近くなろうとするも難聴(母方の祖父、叔父,叔母がひどい難聴で遺伝的な要素があるのだろう)を除けば元気で、公務員退職時の決断であるコンサルタント業もなんとか仕事にありつけて17年余右往左往できている。友人は耳が遠い人は長生きするよ!なんてちゃかされてしまう。幸い退職後は人との間にこれまで一切ストレスはなかった。この年齢になると遺伝的性質も人生に大きな影響を及ぼしているのではないかと思わざるを得ない。9月末で終了したNHKの朝ドラの牧野富太郎博士も我が好きなことを貫き、95歳まで生きたという。やはりいつまでも子供のように周りの事をあまり気にすることなく、我儘で活動的かつ楽天的な人間が長生きするのであろうか?
そういえば今から30年程前、きんさん、ぎんさんの双子の姉妹が100歳になった時、テレビコマーシャルから火が付き全国的な時の人となったことがある。2人にコマーシャル等の報酬はどうされますかと聞いたところ、「老後のために貯金します」と。2人は107,108歳で長寿を終えたそうである。 そんなこと考えながらこのブログを記した。
9月15日甲府市内の介護施設「やさしい手」甲府東事業所をボランティアのため訪問することになった。この事業所は訪問介護やデイサービス、ショートステイを主事業としているそうである。何のボランティアかというと、桜川流江戸芸かっぽれ踊りの公演である。かっぽれというとお祭り踊りが基本であるが、江戸時代の風流を色濃く反映させる各種の演目がある。実は昨年1月、こともあろうに新聞に掲載されたかっぽれ無料体験教室にふと足を運んだのをきっかけに月3回の教室団員になってしまった。桜川后葉先生という70代の歯切れの良い口調の先生から「小宮山さんは筋が良い」などとおだてられ、早1年半以上が過ぎてしまった。最初は直ぐにも覚えられると思ったが、これがなかなか難しい。結局「深川」という演目をほぼ踊れるようになるのに1年以上を要した。しかし、不思議なことにこれを覚えると他の演目にも似たような振付があるので少しずつ見よう見まねで覚えられるようになのであるる。ところが手指や足の動きや振付にはそれぞれ深い意味があり、覚えれば覚えるほど難しく到達点はないように感じた。この間仕事の関係で2ヵ月ばかり休みを取ったので遅れがちとなり、内心不安が襲ってくる。しかし、幸いにも10人のメンバーの中に私より3カ月遅れの男性の新入生が1人いたので多少心の余裕が持てた。とは言え、10年選手が多いのでいつも劣等感を感じている次第である。公演の出演はいつも断りたいのだが無理やりメンバーに入れられてしまう。間違いながらも舞台に立つことが多少進歩に役立っているようでもある(写真は昨年10月甲府市総合市民会館で開催された甲府市文化協会祭の初踊り)。
今回の公演も私の知らないところで決まってしまい、出演することになったわけである。おまけにかって家内の自宅学習塾の子供達の年度末卒業会のアトラクションとして演じたマジックの話をしてしまったことがあり、かっぽれ公演の中間の休憩時にマジックをするように指示されてしまった。この公演は事業所の敬老事業の一環とその時知ったが、踊り手も皆敬老の年である(笑)。施設に入ると20名程のお年寄りが椅子に座り待ち構えてはいたが、顔つきは皆無表情で精気がないように見受けられ、いささか躊躇した。これに対して案内や進行に関わった6名程の介護士の皆さんの声かけや行動の元気さとはあまりにも対照的で大きな違和感を覚えた。「果たして喜んでくれるのであろうか」と。それでも1時間の公演は何とか終わった直後、最前列の高齢女性が突然私の前に来られ、「楽しかったですよ!貴方のファンになりました」と言って握手を求められた。その隣の女性もニコニコして挨拶をもらった(多分マジック披露に対する反応であると思うが)。公演中は介護士に誘導されて手拍子や拍手はいただいたが、ほとんどの人は無機質・無表情顔で退屈そうに映ったので一瞬驚きと意外性を感じた。我々は楽しければ顔の表情や声や行動に出るものと思いがちだが、楽しみ方にはいろいろな表現があるのではないかと感じた次第である。帰り際にも( ^)o(^ )と私を見つめられたので、笑顔で答礼した。ボランティアの難しさと同時に自己満足であってはならないと痛切に感じたイベントであった。
さて、先月京都、広島、愛媛等の出張の疲れは連日の猛暑の影響で長引いたが、その後食品クレーム相談や新規技術の移転相談等でなんとか正常に戻ったが、9月中旬に至っても猛暑とは世界の気候変動に気になるこの頃である。
(公社)日本食品科学工学会の70周年記念大会が京都女子大学で24日から開催された。振り返ればその前身の日本食品工業学会に入会したのが1969年の大学卒業直後であった。山梨県食品工業指導所(山梨県産業技術センターの前身)に入所後食品工業研究のための入会したのである。あっという間に54年が過ぎた。誰一人知人のない中、研究発表や研究論文を発表し続け、幸いにも学会賞(奨励賞)を受賞すると同時に評議員、企画委員、編集委員等を引き受け、この学会には深く関与すると同時に研究者として育てていただいた恩義のある学会である。今や終身会員として現役研究者は離れたが多くの諸先生と知り合うことができ、私の研究者としての造血幹細胞ともいえるのである。
24日は早朝身延線経由で京都に入り、会場に向かった。祈念式典の関係者はほとんど旧知の方々で、しかも私より年下の研究者ばかりであった。特別講演の東京大学大学院の阿部啓子先生の機能性食品に関する講演でも紹介される著名な諸先生方も故人が多かったが、指導や議論をさせていただいた先生ばかりであった。私の記憶では学会発表を始めた頃阿部先生は東大の助手であり、上司の当時の教授藤巻正生先生の下で活躍していた。その後機能性食品を提唱した後任の荒井綜一教授に引き継がれ、素晴らしい伝統と革新研究の流れを感じ取ることができた。
やや感傷的な想いを胸に少し早目に京都駅八条口のホテルにチェックインし、18:30分からのグランヴィアホテル京都の学術交流会に臨んだ。300人を超えているであろう参加者の中に知り合いの若い方々を見つけることができなかったが、ちらほら旧知の知人を見つけることができたのはほっとした。考えれば私が80近くになっているのであるから当然である。
概ね60代以上の方々であるが旧交を温めた。学会長の松井利郎九大教授(中央)とはしばらく会っていなかったが、テーブルに近づき手をあげると、「やあ、小宮山さんお元気で!どうぞどうぞ」と席に誘導され昔話に盛り上がった。故人の九大教授筬島豊先生(元会長)との研究の話に盛り上がった。隣席の元会長で実践女子大学元学長の田島先生も交えて写真をパチリ。
少し離れた大会顧問の席に移動すると、ふと振り返った顔が奈良女子大名誉教授の的場先生(中央)、そしてその臨席の方も後姿では分からなかったが京大名誉教授の平田先生。「わあー久しぶりだねー」と満面の笑顔で談笑。的場先生が「小宮山さん、写真撮ろう!撮ろう!」とこれまたパチリ。いやはや楽しい会であった。
開会に先立ち京都花街の芸妓の舞はさすが京都を感じさせた。また舞妓さん達のお酌回りも一層華やかさを振りまき会話が盛り上がった。
さて、翌25日は広島に移動した。一度は大ファンであるカープをマツダスタジアムで応援したかったが、運よくヤクルトの試合があり、事前に購入したチケットで内野席2階に陣取った。この日の試合は逆転サヨナラ勝ちと最初で最後になるかもしれない試合を神様が提供されたような素晴らしい試合であった。広島は当然であるがお好み焼きを堪能し、新しい平和公園の資料館もしっかり拝見した、外国人の方々の多さに驚くとともに平和への思いが世界に通ずることを願って遅くにホテルの床についた。
26日はレンタカーで若干の情報収集と観光を目的に広島―尾道―しまなみ海道を快走して今治市まで足を延ばした。快晴の中、瀬戸内海の島々の風景を堪能して福山駅の近くのホテルに最後の宿泊をした。福山駅北口に隣接するように福山城がそびえ立ち、ライトアップに天守閣が浮かび上がった。最終日はゆっくりとホテルに滞在して福山城内をあらためて散策し、ハードながら楽しい出会いと情報収集、懐かしい出会い、そして英気を養えた旅でした。27日夜帰宅後仕事をするほどのエネルギーがあったが、28日は高齢者独特の翌日疲れが出てしまった(笑)。